空襲体験談記:橋本 清子
最終更新日:2016年4月1日
徳島市二軒屋町 橋本 清子
大正年間から昭和初期の経済変動期、父親は、田宮町でホウロウ工場(従業員外交等五十人)を経営し、実業家として波瀾万丈の人生であったが、ありし日を偲(しの)ぶとき、尊敬の念が起こる。晩年戦災前には借家ながら店舗三箇所を各家族に担当させた。寛大さは要る。
私もうら若き乙女のころ、父の肝入りで旅行用トランク店を繁華街で営み、現在もある人が貸店舗を出しているが、当時、未熟ながら近所の大店舗にも対等で販売に大わらわであった。日中戦争の真っただ中で、開店二年目のころ、家事手伝いの私に軍需工場挺身隊令の通知が届き、自宅商売を母に任せて会社員となる。
そのK株式会社の門標のある工場は、工員数百人余りで航空兵が機内で使う酸素吸入器の製作品製造に従事、陸軍から監督将校も派遣していた。厳重に警護されていた。私は夜間勤務で夕刻六時入社、翌朝まで勤めた。
昭和二十年七月に入り、今までより、空襲告知のサイレンが夜更けに鳴り響き、頻繁になった。徳島上空にB29が飛来し、偵察のたび、私達は作業をおき屋外へ避難した。驚怖のため歯がガツガツと鳴り、何も考える余裕もなく、工員達も言葉少なだった。B29群が去って工場に戻ろうとすると、今夜はB29が数十機襲来し、ザアザアと爆弾投下が始まる。軍事施設徳島四十三連隊工場等を攻めてきた。工員や他の大勢の人、誰から言うともなく吉野川堤防へ駆け上がり、工場の方を見ると爆弾が投下され地獄の炎が立っている。連焼してくると思い浅瀬の中へと進み、腰の辺りまでつかりながら、B29が去るのを待った。その数は夜目にも明らかにうつり、何回も十機くらいの連体で飛来した。夜明け前、徳島方面のあちこちで火の手が上がり、紅蓮の炎が立ち昇って、暗夜を照らす。無情にも自然も生命も焼き尽くし灰が残る。涙も出ず。農家の牛はつながれたまま炎に包まれて、立ったまま黒い灰になっていた。前川を通れば、紡績工場の白い糸をまいたロクロが川面いっぱい浮かんでは流れてゆく。爆風で川に吹き飛んだ。
佐古橋の辺り、佐古川には何十人も川に逃れたのだろう。何十人の人が水中で沈んでいる。
道を歩き、夢遊病者のようにどこともなく歩き続け、焼け跡の、まだぬくもりのある道路でふと立ち止まる。佐古貯水場を過ぎて百メートルくらいの所で、家族全員再会して無事を喜び合ったが、焼け跡の我が家は何一つ無くて、悲しみが胸に込み上げた。
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