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昭和二十年徳島市空襲で焼け野原に:川人 哲郎

最終更新日:2016年4月1日

 徳島市新浜町 川人 哲郎

 当時、現在地であった徳島地裁の東側の本町を入っていくと、地裁の木製板塀に沿って路地があり、その突き当たりに一軒家(徳島本町一丁目)があった。その住居に私達は居た。今の国道になっている所だ。
 当日、本町に出てみると、あっちこっちで爆弾投下、機銃弾投下による火柱の轟音が猛烈に続く状況となっていた。防空壕のごときはあったようだが、家々が焼け落ちているのを見て、何を思ったのか走り出している人も居たようだ。私も走り出した。門の下に火柱が落ち、左側の商工奨励館(旧徳島医専の仮校舎であったと思う)も焼け落ちつつある光景を見ながら、鷲の門をめがけて走り続けた。ラジオ塔の下の短い石の橋の下に隠れた。お堀ではシュンシュンと機銃の火柱が次々としぶきをあげていた。お堀にかかる石の橋もどうなるか恐怖を覚えた。次に、中央公園を斜めに、旧図書館の前を走った。その西横の城山に助任川に向かってトンネルができていたが、途中まででハンカチのような布を口に当てこの中に入った。煙がもうもうと上がり、私はそれを辛抱した。
 時間がたち、その西の、旧西の丸競技場の見物席に上がったが、数十人が横になっているのが見えた。全員撃たれて亡くなっていた。その一人がリュックサックをつけていた。それを持って、ぼつぼつと帰り着いた。当時は混乱していたので、こんなことができたのである。帰って見てみると、アルミの弁当箱に梅干しが一つ、真ん中に入っていた。シングルの毛布も入っていた。恐れ多いが、何もないので、しばらくその毛布を洗って使わせてもらった。家にたどり着くと、黒こげのお釜とごはん、そして家の(石積みの)地盤以外、何もなかったのだ。
 しばらくの間に次々と、父、弟、妹、お手伝いさん五人が帰ってきた。そのときは、どこでどうなったのかは聞くすべもなく終始した。ただ、爆弾に命中しなかったという安堵だけだった。
 外から見て建物・鉄筋が残ったようなのは、東新町丸新デパート、東船場勧業銀行(現みずほ銀行)、その前の高原石油ビル、県庁、市役所等であった。とにかく、それから既に六十五年が過ぎたが、戦争は二度とあってはならないこと、平和でなければならないことを如実に学んだのは、尊いと思わざるにはいられない。
 さて、今年も三月から四月にかけ、高校野球(センバツ)が行われたが、昭和十七年から二十一年の五年間、戦争のためセンバツは中断した。戦後再開された二十二年の第十九回大会(センバツ)では、当市の徳島商業が優勝したのである。今年の大会は第八十二回であったが、いかに平和が大事なことでならないか、このようにセンバツが行われていることからも言えるのである。そして、六十五年間、平和でやってこれたことのよろこびを、さらに永久にと心の中でつぶやいているこのごろである。

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