忘れ得ぬ徳島市空襲体験:福島 計一
最終更新日:2016年4月1日
徳島市中吉野町 福島 計一
前年秋に父が病死し、家族四人を養うために、達者で生きたいと強く心に誓っていた昭和二十年春、神戸から食糧買い出しに徳島へ来た叔父から、郵便局・電話局のあるここも空襲の目標となるので疎開するよう勧告を受けた。
四月になり、連日、B29の空襲警報が昼夜発令され、時刻を問わず職場警備にあたるため、夜も服を着てゲートルを足に巻いたまま就寝した。過労と栄養不足のため、急性肺炎で床に就き、六月二十六日から絶対安静の身となり、七月一日夜、ドス黒い血を吐き、熱が下がり気分が回復した。
三日夜も空襲警報発令後、焼夷弾が投下され、家も燃え始め、弟妹に「焼米」と父の位牌を持たせ避難させた。このまま寝ていると焼死すると思い、母にすがって家から道路へ出たが、四方火の海だった。人の流れと共に眉山へ向かう間もなく、空からザァーという音で焼夷弾が落ちてきた。山へ向かっていたが引き返してきた人と体当たりにぶつかったので、気を失って倒れた。気がつけば水を掛けられ生き返り、浄智寺の防空壕へ連れて行ってもらい、満員の先客に、病人だからと無理に入れてもらった。
しばらくすると寺の本堂が被弾。屋根瓦がガラガラと落下する音が聞こえた。本堂と防空壕の間に「ヤツデ」の巨樹があり、水分を含んだ広葉樹のおかげで壕の蓋の雨戸も火災から免れた。煙にむせながら辛抱し、外が明るくなり、壕から出て雨戸に横たわり、家の方を見ると何もない。隣に薬局の土蔵が残っている。しばらく経過すると、屋根瓦からかげろうのような熱気が見えていたところが、周囲の熱気により内部の薬品が発火したのか、轟音を立てて倒壊した。
弟妹の安否が案じられるので眉山へ向かい、熱気で苦しみながら防火用水槽の水を足に掛けて歩く。道端に三人の死体があった。外傷皆無の人、頭髪が焼けちぢれた人、虚空をつかんだ人もいる。春日神社境内で弟妹達と会い、無事を確認した。
そのまま、矢三に住む親戚宅を目標に訪ねるべく向かった佐古駅で、職場の先輩から「生きていたのか。」と声を掛けられた。浴衣の寝間着に布靴姿の自分を改めて見た。その晩、焼け残った家は空襲を受けるとデマが飛んでいたので、矢三町の親戚家族と共に大八車の家財の上に乗せてもらい、夜を徹して入田町へ向かったが、訪ね先がわからず、大樹の下で野宿した。夜が明けると夜露でびっしょり濡れていた。全く初対面の人十人余りで訪ねた家は判明したが、著や茶碗・皿もなく、着たきり雀の哀れな疎開者も、人情豊かな家族に助けられ、四か月お世話になった。
病気上がりの身で一時間歩いて通勤した国府町でも、助けられた思い出が忘れられない。
傘がないので濡れた通勤で微熱が出たり、肺結核にかからないよう心掛けたりで、この年齢まで元気に生きられました。親戚の伯母は戦災で母をかばって焼死したそうです。七月二十七日、蔵本連隊正門付近に爆弾が投下され、職場の上司は衛兵交替時に生存され、知人が負傷したと後ほど聞きましたが、人間の生死は運命によるものと思います。
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