大空襲と母:岡田 ゆきえ
最終更新日:2016年4月1日
那賀町木頭 岡田 ゆきえ
私は七十七才で那賀町に住んでおります。徳島大空襲にあったときは、徳女一年生で新蔵町一丁目に住んでいました。三日の夜は、家庭科の宿題があり、十一時ごろ空襲警報が出たので、もう少しで終わるところでしたが電灯の黒布をずっと下げて、いつものように警報が出ると下の弟を背負う「負ぶい帯」を確かめ、母は寝たきりの祖母を負ぶい、小学二年の弟は貯金通帳や国債、印等を入れた袋と学用品を両肩に掛け、いつでも防空壕に入れるようにしていました。
大きな地鳴りか雷のような爆音がして、外に父が作った壕に入ったとき、キラキラした弾が落ちると大雨のような音がして、近くの連隊区司令部が焼けだし、みるみる近所一帯が焼け始めました。夜だし火事になったうえに、父は和田島の川西航空へ徴用で、兄は海軍兵学校へ行って不在だったので、少し心細い思いでした。
家の前は中洲町の境で大きな松のある土手でしたが、松も花火のように焼けだし、家を見ると二階から炎が吹き出し、柱が燃えているのを見ていたら、母が、突然燃えている家へ駆け込み、敷布団を引っ張り出して前の防火用水に突っ込んで「ここは危ないから川へ逃げよう。」といって、皆でぬれた布団をかぶって(今は青少年センター辺りか、当時は弟がタクアンでカニを釣ったりした)川の岸にへばりついてちぢこまっていました。弟は四才でしたが後ろで「勝ちぬく僕等小国民」と大声で歌いだし、「シー」と言ったのを思い出しました。
母はバケツで、川の水を布団の上からかけ通したらしいです。後で見たら母の手の甲に火の粉がついたのか、点々と火傷をしていました。夜が明けて煙の中に出た太陽の異様な色は忘れられません。「明るくなると機銃掃射されるかも。」と誰かが言ったので、布団をかぶってじっとしていましたが、その気配はありませんでした。川からは、線路の上を何人かが通っていくのが影絵のように見えました。しばらくして父が和田島から自転車で一升ビンに入れた水と敷布を破った包帯を持ってきてくれ、かちどき橋の下の船が燃えて、炎が橋の上まであがり怖かったと言っていました。「水、水」と声がしたので見たら、裏のAさんの女の子で、上品なおばあさんとおば様と正座していましたが、三人とも火傷をしていて、父がためらっていましたが水を飲ませてあげました。
後で聞いたのですが、友達のお母さんが私達のすぐそばで直撃を受けて亡くなられたそうです。Aさん達もどうされたかと思います。
私達は八多の母の実家へ行ったのですが、東京にいた伯父一家、叔母も佐古で焼け出され一家六人、分家の伯父は壕で直撃を受けケガをして、合計五世帯三十一人がしばらく一緒に暮らしました。祖父母や伯父一家には大変お世話になり感謝しております。私も弟達も「おかあちゃんが一緒やけん、空襲も恐ろしなかった。」と言い合ったことでした。三十五才で私達を守ってくれた母も、今年百才を迎え兄達と静かに暮らしております。
追伸 下の弟は何にも覚えていないそうです。
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