戦争はすべての人を不幸にする:植松 亨
最終更新日:2016年4月1日
徳島市出来島本町 植松 亨
徳島大空襲の七月三日深夜、父に起こされて僕と姉は裏の防空壕に避難した。燃える徳島駅の赤黒い西空を見上げたとき、ふいに眼前に火柱が上がり、激しい爆発音で体が土中にたたきつけられる衝撃を受けた。意識が戻ると、埋まっていた土の中から夢中ではい上がった。周りには無数の炎が渦巻いていた。熱い火の中を三人は電力会社の横の路地に入り、寺島川ほとりの野原まで突っ走った。そこに大きい防空壕があって、その中に避難させてもらった。
二十人くらいの人の気配で、恐怖と緊張感が漂っていた。ムシロに座ると、左腰に強い痛みが走った。裏の防空壕に爆弾が直撃して、そのとき、腰を打撲したことを思い出した。
「近くの草が燃え出した。煙で窒息するぞ。」
警防団員の叫び声に壕の外へはい出すと、火と熱気が眼前に迫っていた。人々はじりじりと後ずさりして川の中につかった。水辺で、防空頭巾の女性が、救急袋から包帯や塗り薬を取り出してケガ人の手当てをしていた。暗い川底に数発の爆弾がうなりを残して沈んだ。闇夜に悲鳴が聞こえたのは、直撃を受けた人の声だったのか。寺島川の向こう岸にある徳島公園の城山が、巨大な火の塊となって燃え上がった。被災者達は暗い川につかったまま、紅蓮の炎を吹き上げている目の前の山の姿を茫然と眺めた。この世にあってはならない光景、生き物のように闇空に燃え上がる城山の妖しい美しさ、そのすさまじい迫力に、人々は現実のすべての恐怖を忘れて凝視していた。公園の川縁の二階建ての一軒家にも、何度も爆弾が命中し火の手が上がったが、数人の軍人らしい男達がそのつど駆け回って消火に努めた。
「あれは海軍の兵隊さんの寮だよ。」と近くの人が教えてくれた。赤い炎と黒煙の夜空をB29が黒い魔物のように飛び交っていた。赤黒く濁った川の中で、人々は身を縮め、息をひそめて、この地獄図に耐え続けた。ふっと不気味な爆音が消え、熱気も少し弱まると、川の中につかっていた人々に動きがあった。不安と恐怖に身震いしながらも、にわかに寒さを感じて川からはい上がり、くすぶり続ける材木に近づいて体を温めた。辺りがほのかに明るくなると、空襲から解放された被災者達がどこからか集まってきて、家族の名前を呼び合う声が広い公園のあちこちに響いていた。朝、寺島の自宅の方に向かって剣先橋近くに来たが、焼け焦げた街路は汚れて疲れ果てた人々でごった返し、東寺島の街筋には木切れや焼けトタンが熱風に煽られて中空に舞い上がっていた。僕達はそれから田舎の親戚を頼ってトボトボと歩き続けた。
その後、サイパン、硫黄島の玉砕。日本の大都市や小都市の大空襲、そして広島、長崎への原爆投下。日本は敗戦国となり、軍国主義から民主主義へ-急激な時代の変貌に、茫然自失の長い日々。古本屋の本棚から人生論や哲学書を買っては、むさぼるように読みふけりました。まだ少年で、本の内容は理解できなかったが、無力な自分の生き方を必死で手探っていたようでした。
戦時教育は「敗戦色」を戦意高揚のために、虚偽の報道で塗りつぶしていた。住居を焼き払い、手榴弾で本土決戦を命じた軍部の非人道的行為-それが本当の「戦争」の正体でした。戦争に突っ走った軍国主義の横行に同調したのは、「真実を見極めるという民主主義の基盤の薄弱さ」のせいだったのかも知れません。
戦争はすべての人を不幸にする。今なお地球上に、女性や少年達の自爆テロや、原爆の後遺症で苦しむ人々がいることに、胸をふさがれる思いです。
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