戦災と疎開:筒井 豊祐
最終更新日:2016年4月1日
徳島市八万町 筒井 豊祐
昭和二十年六月二十六日、国民学校五年生のとき、午前の授業中に警戒警報のサイレンが鳴った。授業は中止して、家が近い者はすぐに下校、遠くの者は空襲警報で学校の防空壕に入ることになっていた。帰宅してすぐに空襲警報のサイレンが鳴り、防空頭巾をかぶって慌てて裏庭の防空壕に入った。壕の中は蒸し暑かった。
聞き覚えのあるB29の爆音が次第に近づいてきて、急に静かになった。途端に、ズシンとものすごい地響きがして防空壕が持ち上げられたように激しく揺れ、天井から土がぱらぱら落ちてきた。祖父と子供五人が息を潜めて固まっていたが、辺りが静かになったので、こわごわ外をのぞいてみると、真昼というのにまわりは薄暗く、目の前に天まで届くような黒煙が立ち上がっていた。
これが、家から南東に二百メートル離れた住吉島の爆弾投下で、家の窓ガラスなどは全部壊れて、廊下の壁や柱には割れたガラスの破片が無数に突き刺さっていた。
しばらくして、母が勤め先の助任小学校から帰ってきた。「ただいま。」と言って防空壕に入り、話し始めた途端に大音響がして、今度は西北の方向に爆弾が落ちた。これが、家から西北に五百メートル離れた助任小学校の爆弾投下である。しばらくして、母の同僚の先生が訪ねてきた。母の顔を見るなりポロポロ涙をこぼし、「いつも入っていた学校の防空壕が爆弾の直撃を受け、一緒に入っていた先生や子供さんたちが全滅した。」と。母も同じ運命と思い知らせに来てくれたのだった。
母は勤務先の助任小学校で受け持ちの児童を下校させた後、「空襲警報」で一度は防空壕に入っていたが、最初の爆弾が自宅方向に落ち、大きい爆煙があがったので、年寄りと、一歳、二歳、五歳、十歳、十一歳の子供五人の家のことが心配で、様子を見に帰って、偶然、「九死に一生を得る」ことになったわけです。
訪ねて来てくれた先生と手を取り合って、直撃を受けて亡くなった先生や子供さんのことを話し合っていた様子が今も目に浮かびます。
警戒警報のサイレンに変わり、近所の友達と爆弾の落ちた跡を見て回ったが、周囲の家はこっぱみじんに壊れて吹き飛ばされ、直径五十メートルもあろうかと思われる大きいすり鉢状の穴があき、底の方から地下水が吹き出していて、爆弾の威力のすごさを感じた。助任小学校の近くでは、壊れた家の屋根の上に吹き飛ばされて引っかかっている遺体を、竹ざおの先に針金のかぎをつけた防火くま手で引き下ろしているところだった。
「人が死ぬ」ということが十分理解できず、悲惨な状況が、夢を見ているようで現実のものとは思えず、何の感情もなくぼんやりと見守っていたが、もし母がこの運命であったとしたら、戦後の混乱期に五人の子供たちはどうなったことだろうと考えます。
六月二十二日に秋田町が爆撃され、二十六日に住吉、助任と続き、B29による空襲が大都市だけでなく地方でも激しくなってきた。
疎開が必要ということになり、父方の祖父の出身地、名西郡入田村へ行くことになった。入田は鮎喰川上流の山間の村で十六キロの距離があった。父が引っ張る荷車に、タンス、行李(こうり)、布団、衣類などを山のように積み上げて、兄と二人で後ろから押してついて行った。
親戚の家に着いて荷物を下ろし、父は借りてきた荷車を引いて帰り、その夜は兄と二人で、親戚の家に泊めてもらった。
夜中に周りが騒がしくなり、目を覚まして外へ出ると、東の徳島市の空が真っ赤に染まっていた。
B29の編隊が炎の色を反射させながら低空でゆうゆうと旋回し、雨のような「ザー」という音とともに焼夷弾を投下して、その度に、さらに大きい炎が立ち上る様子が手に取るように見えた。この前、爆弾が落ちたときのことを思い出して「みんな逃げただろうか。」と、とても心配だった。いつのまにか夜明けになり、黒い煙が雲のように空一面にたちこめて、その間から見たこともない赤黒い太陽が上がってきた。すっかり明るくなってから、土ぼこりのたつ街道を避難の人たちがぞろぞろ歩いてくるようになった。
昼近くになって、もう来るころだろうと思い、途中まで迎えに出ていると、乳母車と自転車を押して家族全員が無事にやってきた。
その日は疎開する人の群れが疲れきった重い足取りで一日中延々と続いていた。両親から聞いた徳島市の空襲と大火災の様子は、夜通し遠くから眺めていただけの私には想像もつかないほど大変なものだった。
父は「全部焼けてしもうた。」といったが、母は「消火しようとして直撃弾が当たって死んだり、大ケガをした人も沢山いた。」と言っていた。
避難しようと家を出たとき、父は仏壇の位牌を忘れたことに気づいて取りに帰り、家族と離ればなれになってしまったが、吉野川の土手を目指して逃げた。吉野川の堤防に近い徳島工専のグランドとその横に茅原の埋立地があり、みんなそこまで逃げて、防空頭巾の上から布団をかぶりうずくまっていた。目の前に見える家々は、焼夷弾が落ちる度に大きい炎を上げて燃え上がるのが見え、身の回りにも焼夷弾がプツンプツンと落ちてきて生きた心地はしなかったそうだ。五歳の弟が「お母さん僕もう死んでもええで。」と言うほどだったそうだ。
家族全員が無事でだれもケガをせず生き延びることができたのは、本当に幸運であった。親戚が農家で、そこの納屋の部屋を借りて疎開生活をすることになった。
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