とくしまヒストリー ~第10回~
徳島のかすていら -城下町の食文化1-
江戸時代に城下町徳島で、カステラが作られ食べられていたことを御存じだろうか。古文書にカステラが散見するので、今回は城下町徳島の食文化の一端としてカステラを取り上げることにする。
カステラの歴史は古く、天文12年(1543)の鉄砲伝来、同18年(1549)のキリスト教布教と同じく16世紀中頃にポルトガルより伝わったとされる。カステラの語は、カスティリア(のちスペイン)王国で生まれた菓子に由来する。珍しい南蛮菓子のカステラは急速に普及し、江戸時代の初めには早くもカステラの語が文献にみられるほど広がった。
それまでの日本の食習慣になかった砂糖や卵を多用したことから滋養に富み、病気見舞いなどの大事な贈り物として用いられ大名たちも食したという。江戸時代の初めには天下人や天皇に対する最高のもてなしとなっていた。江戸時代の中頃になると製法書が出版され普及し、全国的にカステラが作られていたと推定されている(江後迪子氏)。地方伝播に一役かったのは長崎に遊学していた医学・蘭学の徒で、滋養に富むカステラを藩主や姫君たちに食べさせるために製法を学び伝えたとされる。
城下町徳島のカステラの歴史は江戸時代中期に遡る。徳島藩中老の奥方が、カステラのレシピを書き残している(「かすてらやきやう」賀島泰雄氏蔵)。うどん粉40匁(150g)と砂糖43匁(161.25g)、卵4個を入れて鍋で焼くと、カステラができるとある。美しい料紙に認められ奥方たち女性の宝物のように伝来したものだ。江戸時代中期に徳島でカステラが作られたことが窺える貴重な資料といえる。
昨年、徳島市の魅力を情報発信する「徳島シティプロモーション事業」の研究会の提案で、このレシピを現代のパティシエ岡山康伸さんに依頼し復元するとともに、「徳島城 殿様かすていら」と命名した。素材にこだわり、砂糖は阿波和三盆を使用している。砂糖が随分入っているように思えるが、ほんのりとした甘さが特徴だ。そのお披露目会を平成28年3月12日に開催し、多くの方に参加いただいた。予想より美味しい、優しい味などという、たくさんの感想をいただいた。
ところで、徳島城でもカステラを焼き食べている。蜂須賀斉裕(1821~1868)が13代藩主となり初入国を果たした弘化元年(1844)に、そのお祝いのために家臣たちを徳島城御殿に招いて豪華な食事でもてなした(徳島藩畳刺棟梁下山清右衛門日記「御用方草案」徳島城博物館蔵)。そのデザートにカステラが出されていたのだ。この時には藩士や藩に仕えた職人、町人たち、あわせて数百人もの人々が祝い膳を食べたので、カステラが一挙に普及したことが指摘できる。ちなみに、抹茶を飲みながらカステラを食べている。
慶応3年(1867)、蜂須賀斉裕の招きに応じてイギリス公使パークス一行が徳島城を訪問した。その先乗りで来訪した外交官アーネスト・サトウ(1843~1929)が城で饗応を受けた時にもカステラが出されている。
弘化元年に振る舞われた際にはカステラの感想は記されていない。それは当時の人々が定番のカステラの味を知らなかったからだろう。勿論、殿様のもてなしにけちを付ける訳にはいかなかったからともいえる。
アーネスト・サトウは、徳島城のカステラを食べて忌憚のない感想を述べている。曰く、「固くて、まずい」と(アーネスト・サトウ『一外交官の見た明治維新』)。徳島城のカステラは、サトウのイメージしたものとは大分違ったようだ。当時は、箸を何本か持って卵と砂糖をかき混ぜていたので撹拌が上手くいかず、玉子焼きのようなものだったという(岡山氏)。しかも作り置けば固くなってしまう。徳島城のカステラは、そんなものだったのだろう。
徳島城のカステラは祝儀に供されたもてなしの品で、限られた人しか食べることができない珍しいものだった。その一方で、南蛮菓子のカステラが徳島で綿々と受け継がれていたことは注目される。徳島の人々がどのような思いでカステラを食べたのか。まことに興味は尽きない。
ところで、「徳島城 殿様かすていら」は販売されている(徳島城博物館は期間限定)。殿様にもてなされた気分で、旧徳島城表御殿庭園を眺めながら抹茶と一緒に御賞味いただきたい。
「かすてらやきやう」賀島泰雄氏蔵
参考文献
江後迪子「文献からひもとくカステラの歴史」(『カステラ文化誌全書』、平凡社、1995年)
『カステラ読本』、カステラ本家福砂屋 、2005年
赤井達郎『菓子の文化誌』、河原書店、2005年
特別展図録「阿波の華 徳島城」、徳島城博物館、1999年
春の企画展「阿波の食べ物事情」、徳島城博物館、2011年
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