更新日:2016年4月1日
徳島市中前川町 八木 洋子
当時、私は内町国民学校三年生。父・母・姉・兄の五人家族。南出来島町で下駄製造業を営んでいた。父は、胆のう炎で入院中。母が付き添っていて家には姉と兄。私は近所の知人宅に預けられていた。
七月三日は夜、空襲警報が発令され防空壕に避難したが、まもなく解除になり、寝ついた夜半、おばさんにたたき起こされた。
「早う逃げ。土手の方へ行くんじゃ。」着のみ着のままで家を出た。空は、花火のように赤い火、青い火がピカピカ光り、何か降っているようでもあった。大勢の人が逃げまどう中、頭上に焼夷弾が落ちてきた。危機一髪、とっさに民家の防空壕に飛び込んだ。恐怖のあまり身動きできなかった。かなりの時がたち、壕の中にも煙がたちこめ息苦しくなって、こうしてはいられない、と決心して道路に出てみると誰もいなかった。逃げ遅れていたのだ。三ツ合橋から田宮へ出て、土手の方へ行こうとしたが、燃えさかる火の手で通りを抜けることができなかった。三ツ合橋まで引き返し、桃の木に身をひそめていた。あたりは誰もいなかった。徳島駅近くに入院している父母や、姉・兄がどうしているかもわからず、ただ、無事を念じていた。紅蓮の炎が空を焦がし、頭上には敵機が低空旋回し、これが地獄かと思った。生涯はじめて体験する極限状態。それもひとりぼっちという心細さ。心を奮い起こして覚悟を決めた。
対岸の前川町に父の分工場、製材所と下駄工場があった。明け方まで焼け残っていたのに風向きが変わったのか、敷島紡績からの猛火で全焼していった。悔しさで泣けて仕方なかった。今まで一人で見てきた生き証人として、この光景は心に焼きつけて決して忘れないと心に誓った。
劫火(こうか)の中、黒い太陽が昇った。きっと誰かが助けにきてくれると信じて、三ツ合橋のほとりにたたずんでいた。
「お姉ちゃ~ん」私は絶叫して駆け上がった。姉がドラマのように橋に登場したのである。お互い、手をとり合って無事を喜んだ。偶然にも空襲見舞いに来てくれた知人と会い、重箱に入ったにぎり飯をもらった。ありがたかった。
姉は私を残して父母を探しにいった。しばらくして、若者に付き添われて父母が歩いてきた。浴衣は破れ、目は煙にまかれたのか涙をボロボロに流していたが、ケガもなく、無事再会を喜び合った。皆と再会した思い出の橋。戦後立ち上がった起点の橋。Y字形をしたこの橋の近くで私は暮らしている。
平成六年七月三日午後十一時四十五分。
夫が急性心不全でたおれた。救急車で運ばれ、最善の治療を受けたが、七月四日午前九時、永眠。直前まで元気でいたのに生死を引き裂かれてしまった。あの空襲の時刻とぴったり符合する。自然の摂理に神仏の恩恵を感じ、生かされているのだと思う。徳島空襲から六十五年の七月四日は亡き夫の十七回忌である。
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