徳島大空襲:大滝 キヨ子

更新日:2016年4月1日

 徳島市上八万町 大滝 キヨ子

 私が徳島大空襲を目のあたりに体験したのは小学校六年の夏でした。当時は国民学校といっており八万国民学校に通っておりました。生まれたところは、今は徳島市八万町大坪とか銅(かね)の鳥居といっております。通学が遠いので本校へ行けず八幡神社の絵馬堂で分散教育をしており、一年生から六年生まで一緒に本校より先生がおいでになって教えてくださいました。私達六年生もお手伝いで小さい子供達のお世話をしたり、勉強らしいことはあまり覚えておりませんが、農家へ行ってチョマの皮むきを手伝ったりして兵隊さんの服を作るのだといって、戦場でたたかっている兵隊さんのためにと小さいながら日本が勝つことを信じてがんばっておりました。
 でも、七月三日の夜半から七月四日未明の徳島大空襲は、いつもの空襲警報とは何か違うような町内会のおじさんの必死の声が、「早く早く防空壕へ待避して。」と、大きく叫んでいたのを覚えております。私達も電気を消して、家の前に掘った壕の中に入りました。兄はそのとき出征しておらず、父、母、私、幼い弟、妹と五人で入るなり、いつもは高く飛んでいたB29が低く下りてきたと思ったとき、隣村の橋本という所へ雨が降るように焼夷弾が落ちたのを見たとたん、東の空が、花火が上がったように真っ赤になりパチパチと家が燃えていたのを今も覚えております。そのときの光景は私の脳裏に焼きついて離れません。怖くて五人で体を寄せ合い、敵機が早く去ってくれることを心の中で祈っておりました。幸い、私達の所に焼夷弾は落とされず、けがもなく家も無事でした。
 その朝、明るくなると、徳島市内で川に入り橋の下で怖い一夜を送って命をまぬがれた人々が、疲れた顔でぼろぼろの着物姿で山の方へと「一宮とか神山方面」と思いますが、親せきを頼っていく行列ができて歩いていたのを覚えております。あのぼろぼろ行列も忘れられない思い出です。私の家にも、家を焼かれていく所のない遠い親せきの人々が来ており、納屋でしばらくいたのも覚えております。母が食事を出していたわっていたことなど、六十五年たった今も徳島空襲というと思い出すことばかりです。
 あの怖い思い出は二度と繰り返してはならないのだと、今さらながら戦争の怖さを思い知ります。今、私は幸せです。でも、この幸せも、あの戦争でたくさんの人々の、尊い犠牲があったからこそと、今あらためて感謝の気持でいっぱいでございます。

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