徳島大空襲の戦禍追憶:美馬 準一

更新日:2016年4月1日

 徳島市佐古七番町 美馬 準一

 硫黄島の玉砕に続いて、米軍からの空襲は東京を始めとし、地方にまでも広がりを見せ、沖縄戦の開始と共に、いよいよ本土決戦近しの感を予想し始めた。旧徳島工専一年の私にも日本の敗戦は近しとの自覚もあり、深刻なる戦果発表にも一喜一憂をしたものである。しかも、当時の戦況発表は極度の情報制限を受けており、その真実は知る由もなかったが、しかし、昭和二十年七月、もはや制海、制空権を失った日本にも、最後の時機が到来していることを強く感じていた。
 働ける男子はすべて軍隊に召集され、婦人、子供のみが在宅している程度で、町内全体には重苦しい幽囚の風潮が充満していた。七月三日夜のB29徳島大空襲により、全市民は猛火の下を逃げまどったという惨状の極限であった。この米軍の無差別焼夷弾攻撃により、千数百名に上る徳島市民が、その戦火の犠牲となるという大悲劇が起こったのである。昭和二十年よりの来襲は、津田・沖洲・秋田町等への爆弾投下による物的、人的被害が多数発生、終戦直前の七月二十二日にはついに陸軍病院までも被爆するという大惨事もあり、全市への大空襲は当然予想しうるという状況下となっていたことも事実である。
 追憶するに七月三日夜の大空襲は、B29百機という予想外の大規模なものであった。我が家は両親、妹を含めた四名(弟は神戸に学徒動員中で不在)で、団らんの中にも遅い夕餉(ゆうげ)は遮光幕で囲われた裸電球の下終えて、しばらく過ぎた午後十時ごろであっただろうか、当時は恒例のような警戒警報が発令されたのである。しかし、この夜は、いつもと違い闇空から聞こえてくる敵機の爆音は極度に大きく、その音量から大量投下の危機を感じ、早速、全家族は前庭の防空壕に飛び込み退避したのである。この瞬間、耳をつんざく轟音と共に多数の焼夷弾が落下し、同時に発火炎上し瞬時に周囲の木造物にもすべて延焼して火の海となり、どのような消火対応策も無用のものとなった。小裏丁八丁目(現在の佐古四番町)全町内の家屋は被爆し大火災発生の惨状。子供等を含めた多くの町民は右往左往、自分の衣服に着火した油性爆弾による火を消すためにたたき落としたり、地面に寝転がったりしたが消火は困難を極めたものであった。この非常事態のため、父は家族の安全を計り、壕を飛び出して「佐古川の大黒橋の下に避難せよ。」と命じたのであるが、その瞬間、再び頭上から、敵機の轟音と共に、連続的に爆弾が落下、そして破裂。それを眼前にした私は、その恐怖に身も震え、驚天動地とはこのことかと思った。そして、同時に、あろうことか、私の最も大事な慈母にこの直撃弾が当たるという惨事が起こってしまったのだ。肉親としては予期だにしない最悪の悲劇が、突然の不運として発生したのである。落下する凶弾のために、火中で痛ましく悲しい死を遂げたのである。家族の目前で倒れてしまった母をすぐさま介抱したものの、母は、再び動くこともなかった。、その驚嘆と悲劇のために嗚咽落涙の間もないという戦火の下での悲しい出来事である。そして、このとき、父は両手と顔に、妹も火傷を受けたが、手当ての方策もなく困惑したことも思い出される。また、我が家の隣家の前に、親しかった子供等三人の焼死体を発見したときの戦火の生々しさ、そして清水寺境内広場に並べられた多くの焼死体に覆われたトタン板の様子を見たときは、本当に驚愕の一語であった。
 戦争は惨状の悲劇であり、我々人類は、永遠の世界平和を希求せねばならない必然性を思いつつ、ペンを置く。

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