秋田町の爆撃:高野 真一

更新日:2016年4月1日

 徳島市大原町 高野 真一

 昭和二十年六月二十二日、「空襲警報発令」と防空団長がメガホンを持って町内をふれて回っていた。私たち小学生(国民学校)は警戒警報で、下校していたので自宅待機中であった。
 当時、私が住んでいた秋田町は地下水が高く、地面から五十センチほど掘ると地下水がたまっていた。半地下の防空壕の中はいつも水浸しで、排水は私の役目になっていた。薄暗い防空壕の中は、水たまりで白く光っていた。長靴をはき二歳下の妹と二人で作業をしていると、飛行機の爆音が聞こえてきた。
 B29の爆音は四発の独特なものであったが、徳島では通過するだけのことが多かったので特に恐怖感もなかった。壕の中で排水作業をしていた私は、出入口から首を出し機影を追っていた。
 いつもより低空かな(後で思うことです。)と見ていると、黒い丸いものが落ちてきた。見た感じとしては、パチンコ玉のような、砲丸投げの鉄球のような感じだった。とっさに首をひっこめ、妹に「爆弾投下」と叫び、目と耳を指で押さえ、防空壕の中でうつ伏せになっていた。
 何分後であったか今でも分からない。母の声で我に返ったが、あたりは真っ暗で何も見えなかった。しばらくすると薄明るくなり、周りがぼんやりと見えてきた。母が二歳の下の妹を抱き、私達二人を探していた。泥んこになりながら壕からはい出した私は、「生きている!」と感じた。
 家族は父母と兄弟姉妹五人でしたが、上二人は県外に学徒動員されていた。父は所用で不在だった。母は私たちの着替えをさせながら、朝からしていた掃除が不意になったことをぼやいていた。
 しばらくして父が帰ってきた。すでに警報は解除されていたが、父の誘導で貴重品を持って眉山に避難した。途中で再登校する学友と出会ったが、意識の違いが理解できなかった。
 被害は秋田町一丁目から三丁目までで二丁目は全滅だったが、私の家は奥に引っ込んでいたので、雨戸が外にはずれ少し傾いただけで済んだ。爆死者は二十名余り、負傷者は二百名余りとしか知らされていない。私たちに厳しい防空団長も、監視塔から転落、命を落としていた。
 七月四日未明の徳島大空襲まで十日余り、私たちは、電灯の付かない真っ暗な夜を過ごし、その家に留まった。母は近所の倒れた家から木材を拝借、防空壕の補強に取り掛かっていたが、私たちは後で怖さがのしかかってきた。特に人形がすき間から見えると死人かと思った。
 四日夜半の空襲時はまだ停電中でラジオが使えず、情報が全然なかったので、眉山に避難したのは午前二時を過ぎていたように思う。親子五人がケガもせずに朝を迎えられたのは奇遇としか思えない。このようなことは二度とあってはならないと思う昨今です。

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