更新日:2016年4月1日
徳島市中島田町 久次米 美代子
「防火訓練」
空襲二ヶ月ほど前から、日が暮れると、在郷軍人の方が指揮を執り、男性は放水、女性と子供はバケツリレー。田宮川の柳の木と電信柱に四斗樽の底を抜き、表にルーズベルト、裏にチャーチルの似顔絵を描いたものをロープでつなぎ、炎と見立てて、放水。命中すると、大拍手。
「空襲」
七月三日、一、二発の照明弾で真昼のごとく明るくなり、焼夷弾で火の手が上がりました。母は日が暮れると目が見えない鳥目、上の妹は小学一年、下の妹はやっとハイハイが出来るころ。二人を乳母車に乗せ、母の手を引き、逃げて来た人達の後についていき、着いた所は吉野川の河川敷でした。近くの小学校に駐屯していた兵隊さんが一番に逃げて来ていたのは驚きでした。B29は超低空で飛び回り、近づくと身を伏せ、夜が明けるとやっと空襲警報解除。
家にたどりつくと、住居も家業の製材工場も全焼。消火のため残っていた父も頭に軽傷を負ったものの無事。弟を連れて逃げていた祖父も帰ってきた。祖父は、昔の人の八尺のさらし木綿をフンドシにしていたので、それを帯代わりにして弟を背負い、逃げたとか。父は一人残り消火していたが、雨あられのように落ちる焼夷弾に初めは水をかけていたが、効果なし。水田の土をかけ、四、五発は消したが、後はなすすべもなく、田宮川の柳の木につかまり、川の中で、家が焼けてしまうのを待つしかなかったとか。
ソラマメの取り入れ後であったので、家の焼けた火で炒った状態。食物が無いので嬉しく、一粒口に入れると火薬臭くて、とても食べられない。漬物小屋のコンコの樽が縦に半分焼け残っていた。皆で丸かじり。
後で聞いた話ですが、中心部では土蔵が安全と大勢の人が逃げ込み、土蔵は焼け残ったのですが、周りは火の海。中には水が無く蒸し焼き状態。壁につめを立て、もがき苦しみ、亡くなっていたそうです。
「お願い」
振り返ってみると、田舎の人達は焼夷弾の落ちるのを見て、「キレイだ、めったに見られない花火。」といい、戦後生まれの子供達は戦争ドラマを見て「カッコいい。」と手をたたく。本当は一夜にして無差別に家族を失い、生活の元を失うものだと忘れないでほしい。
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