更新日:2016年4月1日
千葉県在住 吉崎 寛
あのとき、私は南新町に両親と四人兄妹で住んでいました。私が新町国民学校の四年生、末っ子の妹は昭和十九年秋に生まれたばかりの乳飲み子でした。
大空襲があった日までには、秋田町や郊外などに小さな空襲があったけれど、どれも米軍が余った爆弾を落としていったようなもの。秋田町(と鷹匠町)へ爆弾が落ちたのは昼間でした。家の土蔵の中に隠れていて、轟音と地響きのあとで飛び出してみると、空には真っ黒の土煙があがっていて、板塀やゴミ箱に爆弾の破片が突き刺さっていました。
そのころから、警戒警報が出て逃げ支度をして、眉山(いつも天神さん)へ逃げ、何事もなく引き揚げるということが続きました。
いよいよ本番のとき。
時刻が遅かったのか、警戒警報で天神さんへ逃げるということもせずに寝ていました。ところが、いつもと違ってただならぬ音と光。道へ飛び出してみると、郵便局の向こう(西新町、今の経済センターの場所)がもう火事の空になっている。そのうちに城山の方向も秋田町の方向も、要するに内町と新町は三方向を火事に囲まれています。もう家族中が動転してウロウロするばかりです。
みんなで一緒に家を飛び出たが、天神さんの方は火事になっているようなので、瑞巌寺を目指しました。途中で、もう焼夷弾が目の前に落ち始めます。見上げたら超低空のB29が火事の明かりで赤々として、すぐ上にいます。アメリカ兵の顔が見えたような気がしました。
私は、妹の布団を持って父と一緒に瑞巌寺の境内の小さなほこらの軒下で一晩中いました。母と弟たちはどこへ行ったのか、いません。天狗の松の下に大勢の人たちが隠れていたが、そこへねらったように焼夷弾が落ちだす。私のすぐ前の墓地にも焼夷弾が何発も。眉山も照明弾で真昼のように明るくなり、台風のような風が吹いて椎林の森は音を立てて大揺れに揺れています。ザーッという焼夷弾が降ってくる音、火が吹き上がる伊賀町の家並み。もう町中が燃えて、その炎と熱風と轟音。B29が引き揚げるまで赤ちゃん布団をかぶったまま足がすくんで動けませんでした。
ようやく、夜が明けてから「新四国さんの道」まで登って母たちを捜して歩きます。神武天皇の銅像まで捜して瑞巌寺まで引き返してみたら、母たちが山から降りて来てバッタリ再会。母たちは山の中の道がない斜面をはい回って逃げていたという。
新町幼稚園は焼け残っていて、大勢の負傷者が担ぎ込まれていて、もう野戦病院状態。
山門の前にトラックが来てにぎり飯を配りだしたのですが、ボーッとして頭痛もするし食欲などありません。いま思うと、一夜にして何にもなしになった両親はもっと茫然自失だったでしょう。
とりあえず親戚の親戚を頼って行くことになり、そのままの格好で歩きだしました。
夏の暑さだけでなく、仲之町など広い道を選んで歩いたのですが、道の両側の火災跡の熱気で熱い。あちこちに焼夷弾の燃えかすが突き立っていました。
煙が昼になっても消えないためか、黒い空の太陽が不気味だったのが忘れられません。
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