命あればこそ:宮田 春子

更新日:2016年4月1日

 阿南市津乃峰町 宮田 春子

 絶対に風化させてはならぬ、徳島大空襲のつめあとを・・・。
 「欲しがりません、勝つまでは」
 「不自由を常と思えば不足なし」
 歯を食い縛って頑張ってきた戦争。あれから六十五年の歳月が流れ、私も七十七才という高齢者の仲間入りをした。今まで幸福な人生が送れたことは、命があったお陰だ。
 忘れもしないあの夜の悲惨な出来事、歴史上最悪の夜の様子をビデオカメラに残しておきたかった。空襲警報のけたたましいサイレンの音、人々の甲高い声、火の海の中を逃げ惑う人々、低空飛行してきた敵機の機銃掃射によりバタバタと倒れた人、異様な状況をまだ子どもだった私は、この目ではっきりと見た。母と私は大木の下でうずくまり命が助かったのだ。静かに目を開けた母は「生きているんやな、春子。」と叫んだかと思うとキューと力いっぱい私を抱きしめた。
 焼夷弾の雨の降る中、助かったのも母が持ち出した一枚の夏布団のおかげだ。汚れた溝の水に浸しては頭からかぶり、燃え盛る炎を消火することで尊い命が助かったのだ。私たち親子は寺町のお墓の墓石の間で夜を明かし、朝をむかえた。さあ立ち上がろう、としたけど足が動かない。恐怖におののき、空腹のために声も出ず、ただぼう然としていた。そのとき、憲兵さんが木箱ににぎり飯を運んできて配ってくれた。われ先にと手を出す人々。「子どもが先じゃ。」としかりつけ、私にまず一個のにぎり飯を握らせた。血まみれになった手の人、頭から血を流している人、片足がちぎれぶら下がっている人、服がぼろぼろに破れ火傷をしている人、みんな一個のにぎり飯を手に「地獄で仏に逢ったとはこのことだ。ありがたや、ありがたや。」と口々につぶやきながらどこかへ散って行った。
 またもや耳をつんざく空襲警報のサイレン。母と私は目の前の防空壕へ飛び込んだ。中に入ると皆、手を合わせているではないか。すすり泣きの声が聞こえてきた。
 昨日とは様変わりした徳島市街。丸太棒かと思う真っ黒焦げになった人の姿が、あちこちに横たわり、悲惨な有様。建物がくすくすとくすぶっている煙。川面には、ぽこぽこと人が浮かんでおり、大空襲のすさまじさを物語っていた。
 時代も変わり現在の徳島市街、悲惨な戦災のつめあとがどこに残されているだろうか。それを知る世代は昭和一桁生まれ以前の方々と言えるだろう。
 母と私はたった一個のにぎり飯で命をつなぎ、知人の家までようやく歩いて行くことができた。そこには戦災者が三十名も避難していた。おばさんが「米は軍へ供出したので、いもでも食べて。」味噌をつけてほうばった、いものおいしかったこと。私は今でもにぎり飯とふかしいもの味は忘れることができない。なぜなら、尊い命をつないでくれた宝物であるから・・・。

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